県南部のチームが出場するリーグ戦に、普段練習するチームの一員として誘っていただき初参加してきました。Sリーグから6部か7部あたりまでに分かれており、各リーグに5チームが所属。リーグ内で優勝すれば繰り上がり、再開になると繰り下がるシステムのようです。
今回はこの大会で経験したこと、考えたことを記録します。
県南部のチームが出場するリーグ戦に、普段練習するチームの一員として誘っていただき初参加してきました。Sリーグから6部か7部あたりまでに分かれており、各リーグに5チームが所属。リーグ内で優勝すれば繰り上がり、再開になると繰り下がるシステムのようです。
今回はこの大会で経験したこと、考えたことを記録します。
午前中に友人と練習し、午後からもう一人友人を連れて中学校の練習へ。彼のラケットはキョウヒョウ晧なので友人Hとしておきます。
私「どんな練習する?」
カットのBさん「やりたいこと多くて決められないんです~><」
私「いいじゃない、やりたいことたくさんあるのは」
(…それでも君は、高校で卓球を続けてくれないのかい;;?)
寂しいですね。
受験勉強をする中で卓球やりたい気持ちが強くならないかな、卓球やめたら寂しくないのかな、惰性でも何でもいいからもっかい考えてみて…
なんてことを思っておりますが、言えないです。
卓球を止めようとする人を引き留めるには、続けなさいと言っても効果が無いそうですね。そういう言い方より、「卓球にはもっと面白いとこ、あるんだけどな~」という表現がいいとか。
そうなんですよね、中学始めで二年半やった程度ではまだ卓球をやったなんて(良い意味で)言えないんです。以前卓球を料理に例えて中学生の卓球を描写しましたけれども、もっともっと卓球は奥深い。知らない軌道のボール、知らない回転量、知らない速度、未経験の打法、幅広い技術が身に付いた段階で見える世界、そのステージでの試合における戦術的な組み立て、互いにいろんなことができるレベルでの練習…
まだまだ知らない部分があり、未経験の楽しさがあるのです。そういうものが存在することを認識せず彼らが卓球を離れるのは避けたい。「そういうのが、あるんだぜ?」ということを、彼らが引退するまでに伝えられたらいいなと思います。
(おわり)
指導者を含め、大人には二種類のタイプがいると思っています。見えている人と見えていない人です。何が見えている/見えていないのかと言えば、「他の選択肢の可能性」です。
見えている人には「本当にこれでいいんだろうか」という迷いがあり、自分の判断の結果をよく観察します。自分を疑います。だから間違いに気付くことができます。もっと良い選択肢があったと判断したら自分の非を認め、すぐに修正をかけます。自分の思い込みを避けるため、生徒に「こういうの、どう?」とか「君はどう思う?」と尋ねることができます。例え自分にとって都合の悪い返答が返ってきたとても、それを受け入れる心の準備ができています。
見えていない人は逡巡しないために選択肢の数が非常に少なく、このことを認識することすらできません。自分への疑いなど思考の隅にもありません。だから自分の判断の結果を疑うことなんてしないし(そもそも意識の外なのでできない)、間違ったことにも気づかない。自分から他者にアドバイスを求めるようなこともしません。
大人になって年齢が上がれば、上の立場から指摘してもらえるチャンスは減っていきます。そうなった時、自分で自分をチェックできなければ間違いは正されず、どんどんおかしくなっていきます。ですから、30半ばを超えて見えていないような大人はもう一生見えないままです。そんな人間を指導者として仰がねばならない生徒は可哀想だなと思います。
などと偉そうなことを申しておりますが、私自身も狂い始めているかもしれません。コーチと呼ばれ、感謝され、気付かぬうちに調子に乗り始めているのかもしれません。
一度成功したからと言ってそのやり方がまた効果を発揮するとは限りません。疑うことをやめたら終わりだなと思っています。きちんと迷って、疑って、観察して、修正をかける。こういうことを忘れてしまわないようにしたいと、心から思います。
(おわり)
先日大会の会場で、ある二年生のお母さんとお話しする機会がありました。その生徒さんはSK7を使っているので、ここではSさんとしておきます。彼女は小学五年生から卓球スクールに通い始め、現在も同スクールに通い続けています。
今回はお母さんに聞いた話の内容と、Sさんについて思うところを記録します。