“さん”付けを褒められた話

卓球人Aさんと食事し、その中で“さん”付けについて褒めていただきました。

今回はそのことについて。

 

私の思考の性質と外部コーチという立場、関わっているのが女子生徒であることから、私は生徒たちを“さん”付けで呼んでいます。ですからAさんとのお喋りの中でも、生徒たちの名前を“さん”付けで発しておりました。そんな中、私が「Bさんが…」と話し終えると、「その“Bさん”っていうの、いいですね。」という話になりました。

Bさんは二年生で、三年生の一人と苗字が同じため名前で呼ばれています。ですから私も名前+さんで呼んでいます。AさんはBさんを幼い頃から知っているため、どうしても“Bちゃん”と呼んでしまうそうです。そういう背景に加えて、“さん”付けで呼ぶことによって生徒たちが一人の人間として扱われている、尊重されている感じがするだろう、ということで褒めてくださいました。特に私が関わる部では先生二人とも呼び捨てですし(これ自体は別段変ではないのですけれど、信頼関係が無いとか言い方によっては突き放した感じを受けますね)、二人称は「お前」です。そういう環境の中で「○○さん」と呼ばれることは、彼女たちにとってとても良いことに違いない、とも仰っておられました。

私は何かを狙って“さん”付けをしていたわけでもなく、また上記のような考え方をしたことが無かったので不意を突かれましたが、言われてみれば確かにそういう良さがあったのかもしれないな、と考えさせられました。

 

学生の時分は私も、先生や先輩など年上の人に褒めてもらう機会はそこそこありましたが、最近ではそういう場面がほとんどありません。生徒の皆さんや保護者の方から感謝の言葉はいただくのですが、そんな中で最近思うことがあります。それは、私は感謝の言葉より褒める言葉を欲しているということです。練習で隠し味のようなアドバイスをして良い変化が出た時、ベンチマジックを感じた時、「ありがとうございました!」ではなく「今のアドバイス、効きました!さすがですね!」なーんて、冗談交じりに褒めてほしい。年齢や立場上、生徒たちとそういう距離感にはなれないことは分かっていまるのですけれど…。

褒めてほしいという私のワガママだけでなく、感謝の言葉では私が満足できない要因が他にもあるように思います。まず、「ありがとうございました」という言葉には具体性がありません。何に対してなのかが曖昧で、よってそれを言われて得られる満足度は低いです。また、こういう言葉は誰にでも、思っていなくても簡単に言えます。ゆえに、言われると「多少はお役に立てたかな」と思いつつも、本当のところは分からないなと思うのです。お世辞と言うか、社交辞令のような要素が混入しているのではと疑ってしまう自分がいます。本当のところは目に見えませんから。

だからこそ、自分が意識していないところをフッと褒められたのは物凄く嬉しかったのです。また、先日の記事に書いたようにある生徒のお母さんから「『今の狙った?いいね!』みたいな、見えないちょっとしたことを褒められたのがすごく嬉しかったと言ってました」という言葉も物凄く嬉しかった。

中盤以降かなり話が脱線しましたが、私が感じたような嬉しさを、生徒たちが感じられるコーチングを常に目指したいものです。

 

 

(おわり)