"ちゃんとすること"は手段であって目的ではない

部活動を含め、中学校での教育では生活態度やマナーに関する指導が重視されます。このこと自体に異論はありませんが、部活動での先生たちの様子を見ていると、その内容や指導に関する考え方などには問題があると考えています。

 

違和感

卓球部に関わっていて大きな違和感を感じるのは、例えば試合のセット間に選手を膝立ちにさせてベンチで先生が喋る光景です。”見えていない人”がこれを見たら、「あの学校はちゃんと指導しているんだな」などと思うのかも知れませんが、私に言わせれば試合が続くのに選手を膝立ちにさせるなんて狂っている。膝は痛くなる、足が固まって次のセットの出足が悪くなる、いいことなんてございません。選手にとって良いことなら否定しませんが、セット間では立ったままの方が良いことがほとんどですし、一旦選手が落ち着きたいならベンチが立ってでも選手を椅子に座らせたっていいと思います。何にしても、立ち以外の姿勢を求めるならせめて床に普通に座らせるべきです。

 

昨年の今頃、練習試合で私が椅子に座って選手に立ったまま話を聞いてもらっていたら、先生が飛んできて膝立ちにさせようとしました。どうも生徒の目線が私より高かったことがいけないと、そういう風に先生はお考えだったようでしたので、選手が立ったままでいられるよう、私は立ち上がりました。

 

”ちゃんとする”ことの価値

目上の人に対して目線を低くする、敬語を適切に使う、挨拶をする…などを、ここではまとめて“ちゃんとすること”と呼ぶことにします。これらは決して教育の目的ではなく、相手に「私はあなたに感謝や敬意を抱いていますよ、私はあなたにとって有害ではありませんよ」とアピールし、「(だから私に対して良くしてくださいね、害を成さないでくださいね)」と暗に要求するための手段です。過剰に“ちゃんとする”必要はありません。

ですから、生徒の目線を大人より低くさせることを先述のように強制するのは、おかしいと思います。その場面では、他にもっと優先されるべきことがあるからです。確かに日本で生きていくならそういう感覚を持っておいて損はないと思いますが、手段を目的とはき違えて不要な場面でも強制する様子を見ると、「先生は、大人は、子供より格上なんですか?あなたはそんなに偉いんですか?」と思わずにはいられません。膝を付かせ、(物理的に)上から目線で、選手の考えを聞くことなく一方的に指示を押し付ける。小さな勘違いが積もり積もって、こんなとんでもないベンチワークが繰り広げられています。もう最悪。

 

選手ファースト

選手のパフォーマンスが最大限高まるよう、周囲が環境を整備しよう、という思考は「選手ファースト」と呼ばれます。つまり、選手の希望を聞き出した上で出来るだけそれを尊重しようという考え方です。本来こんなことは当たり前です。プレーするのはベンチにいる指導者でも観客席にいる保護者でもなく、選手だからです。いくら親身になって気持ちを想像しようが、最後は現場(=選手)の判断で試合が進行するのです。それを周りが邪魔するようなことがあってはなりません。良かれと思ってやったことが、選手の心理を乱したり結果を変えてしまったりすることがあります。

例えば目線を例に挙げれば、大人の方から目線の高さを同じにした方が安心できる選手もいれば、子ども扱いされているように感じてかえってムッとしてしまう選手もいます。セット間のアドバイスについても、指導者がたくさん喋った方が良い選手、選手自ら考えを吐き出したほうが頭が整理される選手などいます。得点を取った時大きな声を出したほうが調子が上がる選手、声を出すと疲れたり集中が乱れる選手、集中すると自然と声が出なくなって自分の世界に入っていく選手…。随所で、タイプは様々です。

大人が勝手に選手の心の内を想像し押し付けるのではなく、本人にきちんと確認を取ることが肝要です。選手本人が、その場で、何を望んでいるか。何が選手にとって本当に一番良いか。これを置き去りにしてはなりません。ところが残念ながら、これが置き去りにされているのが、スポーツ指導の現場、こと中学校の部活動の現場です。

 

 

(おわり)