精神的に辛い練習は必要か

スポーツには大きく分けて二種類の「辛い練習」―肉体的に辛い練習と精神的に辛い練習―が存在すると考えています。今回はこれらの必要性や、そういった練習が行われる(あるいは強制される)背景などについて、私の考えをまとめます。

ただし、中学入学時点で一通りの打法を安定して使える経験者と、中学始めの生徒の比率が1:2以上であるような中学校の部活動に限定して考えます。(私が関わっている学校で、1:2強程度です。)

最初に申し上げますが、上記の条件下では基本的に精神的に辛い練習は不要、県大会上位を目指すのであればプレースタイルによっては肉体的に辛い練習が必要になる、と言うのが私の考えです。

 

肉体的に辛い練習

→肉体的な負荷が大きく練習後に強い疲労感を感じて、その日はもう運動ができない程の練習、と定義します。

 

卓球で言うと、ピッチの速さや運動量の多さなどによる負荷の大きい多球練習がイメージされます。小柄で前陣での速いピッチのラリーを得点源とするような選手は、レベルが上がっていくと必要になる練習です。県によってもレベルが大きく異なりますが、こういう練習の必要に迫られるのは相手のレベルがかなり高いと思われます。2、3発強打した位では得点出来ない相手を想定した時に必要になるでしょう。また、カット型の選手にとっては避けられない要素です。

他には例えば、フォアハンドの感覚に優れているけれど足が動かない選手がいたとしましょう。そんな選手には、「今間に合う限界より少しだけ速いピッチ」での多球練習が必要になります。この「限界より少しだけ速い」というのが重要です。いきなり過度な負荷を掛けると肉体よりも気持ちが先に折れて続かなくなる恐れがあるのと、全く手が出なくなるので練習の意味がなくなります。卓球、スポーツに限らず、今の限界より少しだけ先を目指し続けることで能力の向上が生じるのだと思います。限界の先だから肉体的には辛いけれど、何とか届きそうだという希望が見えていれば中学始めの生徒であっても頑張れるはずです。それに、ある段階までは足を動かす練習をしても肉体的にそれほど大きな負荷はかからないはずです。何故なら動かないものを動けるようにしていくステップであり、すなわち生徒の持つ能力を目覚めさせていく作業なので能力の限界に近付く練習ではないからです。練習後に肩で息をするようなことにはならないと思われます。(しかしながら、生徒の能力や体調を観察し続けることを忘れたらいけません。外から見た様子や周りが勝手に想像する状況と、生徒本人が感じることは違っているのが当然と考えて注意します。)

 

 

精神的に辛い練習

→選手を否定するような言葉や選手にNOと言わせない雰囲気が存在する中で行われ、選手の心が”傷付く”練習、と定義します。

 

ミスや練習態度に対して怒号が飛んだり、厳しい叱責を浴びせられるような練習は必要ないどころか排除すべきと考えています。今回対象としているのは世界で戦おうとかオリンピックで金メダルを取ろう、という選手ではないからです。小学生の頃から卓球をやってきた経験者であれ中学始めの生徒であれ、先述のように「今の自分より少し先」を目指し続ければ良いのです。そのために指導者がサポートをするのであって、最初から遠いレベルを目指して過度に厳しい要求をし続ければ、選手の心がそのスポーツから離れそれまでの練習の価値が急落します。私がいつも考えているのは、「卓球を嫌いになられたら終わり」ということです。どんなに指導する側がビジョンを描いて力を入れたところで、本人の納得が無く推し進めれば卓球を嫌いになり高校で続ける者がいなくなってしまいます。高校で続けるか分からないから二年半で形にする、と言って指導している先生方が見受けられますが、それはあなたが決めることじゃない。もちろん区切りとして三年生の夏の総体を見据えながらも、卓球を好きになって高校でも続けたいと思えるようなコーチングをすべきです。

 

ただし、苦手な技術に向かい合うことは必要で、結果精神的に辛さを感じるとしたらそれは避けられないことだと考えています。得意なこと、上手くできることばかり練習しているわけにはいかず、今出来ない技術、確率の低い技術に向き合うことは重要です。そういう技術練習の練習時間に占める割合が増していくにつれ、精神的には辛くなってきます。あれを試してもダメ、これを試してもダメ、ちょっと休んでまたやってみる、でも上手く変わっていかない…。こういう時間は確かに辛いですが、だからと言って苦手な技術の練習から逃げるわけにはいきません。

しかしながらここで注意したいのは、目的は「苦手な技術の克服」であって、その過程に副産物として生じるのが「精神的な辛さ」であるということです。決して精神的に辛い練習は目的でも手段でもありません。そういう練習をすれば苦手な技術を克服できる、というのは間違いです。苦手な技術に向かい合う選手をサポートするのが指導者の役割であり、精神的な辛さは指導者がおし付けるものではなく取り除こうと努めるものと考えています。

 

私が協力している学校では、「お前はこの前の大会で格下に負けたんだからもっとちゃんとやれ!」とか、「地区予選を抜けられなかったのはお前だけだぞ!」などと、生徒を焚き付けようとする発言が往々にして発せられます。しかしこういう言葉は、卓球競技を人生の軸にしようとしてはいない生徒たちにとって、精神的な負荷がかかり過ぎます。結果、精神的に辛い環境になっています(泣いてしまってそれ以降練習にならないなど)。この学校の先生だけでなく他校の先生にも同様のタイプがしばしばいて、中学校の教員にはこういうタイプが多いことを痛感します。

彼らがなぜ、競技を仕事にするわけではない生徒たちに過剰な精神的負荷を掛けてしまうのか。こういうことが発生する理由について、最近私は一つの仮説を得ています。それは、メディアの影響です。自身がスポーツを長く、あるいは深くやり込んだことがなく、かつ”見えていない”教員たちが何を拠り所に部活指導を行うかと言えば、テレビで放送されたり雑誌に掲載されるような、「トップ選手への厳しい指導」ではないかと感がえているのです。シンクロ、バレーボールの日本代表チームは特に厳しい指導がなされているイメージがありますが、テレビで放映されるスポーツ指導はああいう光景が多いです。当然トップ選手、人生を賭けてその競技を行う選手たちが対象ですから、ある程度厳しい言葉にも耐えられるのかもしれません。(実際には、選手たちは上手く聞き流している…といった内情が引退後語られることもありますがね…。)それに彼らの多くが中学生ではなく、若くても十代後半ですから、ある程度は自分で跳ね返すなり受け流すなり対処ができます。

一方で初心者・初級者への指導がテレビで放映されることはほとんどなく、そういった現場を教員が見ることはありません。スポーツをやりこんでいないから、試合中にどういう言葉をかけられたらどういう気持ちになるか、本当のところが分かっておらず、つまりは想像ができません。だから記憶の奥底に残るトップ選手への厳しい指導を、無意識になぞっているのだと思います。結果、現場の生徒の実情に合わない指導がそこここで行われるのです。

 

私が見ている生徒たちは、時々次のように文句を言っています。「あんなに言うなら、先生がやってみればいいんだ」と。これは先生の卓球技術が不足していることそのものが原因なのではなく、技術的に足りないことを棚に上げて押し付けるから生徒の不満・反発を招いているのです。私はカット型ですから、小学生の頃から卓球スクールに通ってきた攻撃型の生徒のような、綺麗なフォームでの精密な攻撃は出来ません。でも、彼らは私の話をきちんと聞いてくれます(そう見えているだけかも?)。それは私が彼らの思いをこちらから尋ねて聞き出し、受け止めた上で発言しているからだと思います。だから私より攻撃技術に優れた選手も、話を聞いてくれるのです。私は現時点では部員全員に勝てますけれど、だからといって先生と同じやり方ー彼らの言葉を聞き出そうとせず、気持ちを考えず一方的に指示する―をしていたら強い反発を受けるはずです。

最近私が気に入っている言葉が、「○○してみるといいんじゃないかな。言うほど簡単じゃないと思うんだけど…」というものです。これは私があるレッスンプロAさんに言われた言葉です。Aさんと私でゲーム練習をすると2,3回に1回やっとフルセットになるかならないか、くらいの実力差があります。まだ私は一度も勝ったことが無く、そろそろ10連敗になろうかというところです。それだけ差があってもアドバイスの後に「いや、言うほど簡単じゃないと思うんだけどね(笑)」と言ってもらったのがとても心に残りました。ああ、これだけ差があってもこの人は私の事を、私の卓球を尊重してくれるんだな、と思って信頼感がグッと強まりました。Aさんはペン表なので、カットさせたらさすがに私の方が上手ではあるのですけれど、私と生徒たちの関係も同様だと思い、同じような言葉がハマるかなと感じている所であります。例え同じカット型であっても、人間が違い用具が違うわけで同じようにプレーすることはできません。ですからカット型の選手にも私は同様に接しています。

 

 

「楽しんでいたら勝てない」

これは関東学生二部でプレーしていた女子選手Bさんから聞いた言葉です。初めてこれを聞いた時、私の中には尊敬の気持ちと同時に寂しさがありましたが、非常に深く納得したのを覚えています。そういうレベルで勝とうとしたら、あるいはそういうレベルからさらに先に行こうとしたら、練習中に”遊び”を入れる余地はなく、ピンと張り詰めた心を維持し続けないと足りない、ということと理解しています。確かに彼女の場合は黙々と練習する修行僧タイプでしたので、必然なのかなと。女子のトップ選手にはこういうタイプが多いように思います。どんなに練習でいいプレーをしても声も出さず、淡々と次に向かっていく…。そういう様子を見ながら、私にはできないなぁと思っていました。

もちろん人によるとは思います。中には楽しさを感じながら、高いレベルで練習している選手もいます。しかしながら共通しているのは、非常に高い集中力と競技に向き合う真剣さだと思います。だから楽しみを感じていても、遊んではいないし、楽しむためにやっている訳ではないことが伝わってきます。

 

かつて私が目にして印象に残った記事を貼っておきます。これを見て、「あぁ、Bさんも同じこと言ってたなぁ…」と思いました。

あくまで”プロ”やそれに準ずるレベルではこういうタイプが多い、あるいは適しているのであって、公立中学校の部活動にて強制するものではないことはお忘れなきようお願い致します。

 

 

最後に

私自身のためにも、私の主張を確認しておきます。

 

「精神的に辛い練習」は不要、「肉体的に辛い練習は」レベルやプレースタイルによって必要を迫られることはある。

練習の内容や目的によっては精神的な辛さを感じることもあるが、それは目的ではなく過程で発生する副産物。精神的な辛さを感じれば技術が向上する、とは限らないことから、これは手段でもない。指導者の役割は、そういう練習中に選手が抱える精神的な辛さを取り除こうとすることであり、それを押し付けたり増幅したりすることではない。

 

 

(おわり)