10点取られてもいい、2セット落としてもいい

試合での考え方について。指導する人間がこれを理解し、卓球経験が浅い選手や中学生に対して伝えねばなりません。

 

3-0と3-2の価値は変わらない

”格下”の選手にセットを落としたりデュースにされたりするのを見て、選手を責める人がしばしばいます。これは点数やセット数という表面的なことに目が行っていて、本質的なことが全く理解できていないことの表れです。10点取られようが2セットを落とそうが先に3セットを取れば勝てる競技なのですから、3-0でも3-2でも勝ちは勝ち、そこに貴賤はありません。

ベンチにいようが観客席にいようが、選手とは見え方が違います。選手は動いていますし自分自身の動きは視界に入らないので、ボールを見ること自体が外から見ているほど簡単ではありません。加えて、卓球は相手がいるスポーツです。相手が仕掛けている事に気付けず、それにはまっている可能性もあります。それに気付いた上で、一瞬で判断し決断し実行しなければいけません。選手にとっては外から見る10倍は難しいのだと考えるべきです。

 

もちろんさらに上を目指すなら、試合内容の良し悪しも評価すべきです。しかしながらその対象は点数ではなくプレー内容、つまり戦略的な正しさです。自分が出来る範囲で一番良い選択ができたかどうかです。手を尽くしても勝てない相手はいます。ですから点数やセット数で評価することに意味はありません。

また、戦略的な正しさを評価するなら試合の後です。セット間には「こういう風に攻めるのがいいね」といったように否定的な表現は避け、選手の思考が”うまくいっていないこと”へ向かないようにし、同時に選手の気分が落ちることを徹底的に避けます。試合の後で、反省として「アレは危ない展開だね」などと確認し練習に活かすのが良いでしょう。

 

 

”格下”という考え方自体が危険

総合的な技術力に差があっても、組み立て方が良ければできない技術はなかったことにできます。ですからちょっと相手を見てどちらが上だと判断することに意味はなく、慢心や油断を招く危険な行為です。勝手に実力を判断して、選手が負けたら叱る。こんなことが繰り返されるのが中学校の部活動の現場です。指導者へのコーチングが必要です。こんな最低限のことくらい、出来るようになっていただかなければ卓球界にとって大きな損失が生まれます。

 

 

2-0になってからが本当の勝負

相手と力の差が無いにもかかわらず、2-0になったところで安心してしまう指導者の方がいます。試合においては最後の1セットや最後の2点を取るのが大変で、こういう油断が命取りになることは往々にしてあります。そういう空気が選手に伝わらないよう指導者側が気を引き締めた上で、選手に攻めの気持ちや姿勢を緩めないよう伝えねばなりません。私は意識に上ってきたわけではないけれど、どこかこういう油断があって2-0からひっくり返された経験を何度もしてきました。心のどこかで勝ちを意識してしまう、あと1セット”だけだ”と思ってしまう。そういう心が相手のミス待ちへと繋がり、自分で点を取りに行く思考が減って、徐々に相手の勢いがついてしまう…。全国レベルの選手であっても、何度もそういう経験をしてきたと聞きました。チラとでも思ってしまうと崩壊が始まる、そういう経験をする中で2セット取ってからの大変さを学んだのだということでした。

最初から、どうせフルセットになると思って心や戦術の準備をしておけばいざとなって焦ることは減っていくはずです。本当の闘いは2-0になってから、あるいは2-1の7-5から、あるいは2-2の9-5から、始まるのです。

 

 

目先の一点・一勝を優先するのか

選手のレベルによっては、各技術の精度に差がある場合があります。例えばツッツキは出来るけれどドライブは不安定といった場合に、失点を防ぐためドライブをしないよう指示するのは果たして本当に選手のためになるのでしょうか。私はこれは違うと考えています。ドライブを軸に戦う選手を目指すのであれば、技術の練度により今は打てないボールもいずれ打たねばならなくなります。入らないからといって打たないようにプレーさせると、打てる球と打てない球を判断する能力が育ちません。これでは技術練習をしても本番で打てない選手になってしまいます。

ある程度技術練習をしたら試合でどんどん使っていくべきで、それを指導者は支持し応援しなければならないと思います。本番で使ってみると、選手の感じ方は練習と全く違うはずです。出来るようになったと思っていたけど、やっぱりまだちょっとココが違うな…などと感じるはず。そういう感覚を残して練習へ戻ると、グッと伸びることが出来るはずです。

 

 

何にしても、目先の事や短絡的な思考は放棄して、もっと先の事や長期的・多角的な視野で考えたいものです。私を含め、「本当のものが見えていない」選手・指導者においてはそうする以外にないのです。

 

 

(おわり)