信頼

どうもこんにちは。

定期的に読んでくださっている方がいらっしゃるなら、お久しぶりです。

こちらでは一月以上音沙汰無い状態でしたが、私は変わらず卓球を続けております。

 

今回は、中学生たちとの間での「信頼」というものについて思うことを書いていこうと思います。

 

 

信頼関係の構築

中学スタートの子供たちに接触するにあたり、まずは卓球が楽しいものだということを知ってもらいたい、卓球を好きになってほしいと考えています。そうでなければ卓球を選ばなければ良かったと後悔させるだけです。それは、最悪です。

 

とにかくまずは卓球を好きになってもらうことです。好きになれば子供たちの中に自ずから、「もっと上手くなりたい・勝ちたい」という思いが生まれます。後はその熱を利用して形を整えるだけです。

 

好きになってもらうために、男子の場合は「卓球ではこんなことが出来るよ」ということを見せてあげるのが入りとしては良いのかなと思います。”スゴイ技”を見せて魅了させる方向です。男子の中にはそれを見てやってみようとする子供が多いように思います。

一方で女子の場合は難易度の高い技を見せても難しさを感じて気が引けてしまうケースが多いです。ですからまずはシンプルなところから入って、出来ないことを出来るようにしていく方が魅力を感じやすいと考えています。

 

私は今のところ専ら女子のコーチングに当たっておりますので、最初の内は「好きになってもらう手段として上手くなってもらう」という方針を採ります。

作業的な練習を繰り返すだけでは最初の内は楽しみを感じられませんので、時にはピエロのように振る舞いオーバーに褒めるなどして誤魔化しつつ、私がどういう人間なのかをまず知ってもらいます。そうしていく中で段々と打球練習に入っていきます。

打球させる際には出来るだけ簡単に打てるようなところから入り、思ったように体が動かないようなら表現を変えたり意識させるポイントを変えたりして「できるようになった」を経験してもらいます。出来なかったことが出来るようになったと感じられれば、大抵の場合自己肯定感が上がり卓球への興味関心を引き起こすきっかけとなります。

 

そうして少しずつ私という人間に慣れ、時に苦しい試合を一緒に乗り越えていく中で、彼らの中で段々と私への信頼感が醸成されていくのかなと感じています。

信頼してもらうことを目的にして行動するのではなく、結果的に信頼を得られるというのが理想的ですね。というかそういう風に考えられなければ、自我がはっきりしている女子中学生たちから信頼は得られないのではないかなとも。

取り繕っていることを見透かされている先生方はそこここで見られます。底が見えてしまっていますよ。

 

 

コーチングは信頼感が前提

同じ言葉や内容であっても、信頼していない人からのアドバイスや指導は受け入れがたいものです。そもそも間違っているような気すらしてきます。ですから技術云々の前に信頼してもらえなければ話が始まらない、まさに「お話にならない」わけです。

これは外部コーチのような立ち位置に限らず、教員であっても同じはずですけれどもね。その辺を理解されていない人間が中学校の教員には多いようですね。

 

もし私が中学生たちから信頼されているとしたら、それは彼らを子ども扱いしない点が大きく作用していると思います。困っていれば彼らがその場でその瞬間に何を思うかを聞こうとするし、彼らが上手く自身の思考を言葉に出来なくてもそれを理解しようと時間をかけるし、理解力が低いからと説明を省いたり応答をおざなりにしたりしない…ように努めています。

これが男子だったらちょっと変わってくるかもしれませんね。女子なもので、まぁ~オトナです。語彙力だとか表現力は拙い部分がありますけれど、自我がはっきりしているので「こうしたい、これは嫌、こう感じた…」自分の思考は男子に比べれば明瞭です。

私はそもそも他人が何を考えているかを聞くのが好きなので、そういうところを聞きたいと思うのですね。だから自然とこちらから彼らの目線に近付いていくことができるのかなと。理解しようとしたり待ったりができるのかなとも。

 

こう書いてきますと「おいおいこいつは聖人なのかよ」とね、そういう思いが自分で致してきますね。

私は人の思考を聞くのが好きですけれど、それ以上に自分の思考を垂れ流すのが好きなので、お喋りが過ぎる点が問題ですね。抑えているつもりが「隙あらば自分語り」状態になっているでしょう、それも自分が思っている以上にそうなんでしょう。

ここは本当に何とかしていかないといけないと思う一方で、卓球に関するものに限らず知識として持っている情報量は私の方が圧倒的に多いので、”教授する”ことが多くなるのは致し方なしかなぁとも。べらべら喋る分、もっともっと彼らの話の聞き役に回ることで相殺していきたいところでございます。

 

 

信頼感は確かめられない

ここまで、まるで私が中学生たちから信頼されていることが確定しているような書き方をしておりますが、本当のところは分かりません。彼らが本当はどう考えているかを確かめようがないからです。

 

彼らの表情ですとか、私の問いかけへの応答、私がいる前での彼ら同士での会話なんかを見ていますと、どうやら私のことを信頼してくれている人が多いのではないかしら…という推測は立ちます。しかしこれは、単なる思い込みかもしれません。目に見えている彼らの振る舞いに偽りがないとしても、それを私が自分の都合の良いように勝手に解釈しているに過ぎないのかもしれません。

それに、見えているものが本当とは限りませんね。女の子の精神的な発達は驚くほど早いですしね、演じることも容易いでしょう。

それにほら、我々だって顔も合わせたくないような人と作り笑いしながら会話することくらいできるじゃあないですか。それらを考えますとね、目に見えることが本質かというのは疑わしいのですね。

 

こう書いてきますとね、なんだか今度は私が彼らを信頼できていないんじゃあないか?ということになってきます。

もちろん、私が彼らを疑っているわけではなくて、信頼…というより信用しております。きっと彼らは私を信頼してくれていると信じたい、そう思います。

でも確かめようがないから、驕ってはいけないねと、そういう思考でございました。

 

 

 

(おわり)