”普通”とは

個人の価値観に基づいた主観に過ぎない…?

 

 

”普通”は本当に普通か

実家を出て以降、自分にとって普通だったことは世の中では普通ではないのかもしれないと思うようになりました。

 

家の中のことで言えば、実家の冷蔵庫の中にジュースや炭酸飲料があるということはほとんどありませんでしたので、家で飲み物と言えばお茶一択でございました。子供の頃に炭酸を飲む機会はほとんどなく、そのせいか炭酸は痛みを伴う飲み物と認識しておりおいしいとは思えません。

けれども人様のおうちに伺う機会が増え、また知り合った人に聞いてみても、家庭内で清涼飲料水を飲むのは珍しいことではないようです。

 

あるいは和室以外は廊下も部屋もフローリングでしたので、玄関で靴を脱いだらスリッパを履くのが当たり前でした。ですから大学進学以降の一人暮らし、1Kのアパートでもスリッパを当然履いておりました。

友人が来た時にスリッパを出すこともありましたが、思いのほか皆スリッパを欲しないんですね。私はフローリングを裸足で歩くなんてベタベタして気持ち悪いんですが、この感覚もどうやら多数派ではなさそうなんですね。

 

教育に関することですと、言葉遣いですね。「ご飯を食べる」のであって、私は「飯を食う」なんて言葉、使ったことがないです。その辺に厳しい母の影響か、私が物心ついた時には父もそういった言葉を使うこともなく、家庭内でそういう言葉が使われない環境でした。ですから、私は人が発する「食う」という言葉を聞いた瞬間、うわぁ品がないなぁと思ってしまうのですが、これは…どうなんでしょう。

あるいは、自分で使ったものは自分で片づけるように厳しく叱られた記憶もありますし、食卓に出されたものは残さず全て食べるよう言われていました。私はワカメが大の苦手でして、朝食の味噌汁は天敵でありました。今でこそ多少の好き嫌いは見逃してくれるようになりましたが、子供の頃は残すとゲンコツが降ってくるので何とか流し込んでおりました。

お椀にご飯粒が残らないようにも言われてきましたので、人様のお子さんがご飯粒を大量に付けたまま食事を終えていたり、あるいは野菜類に全く手を付けていないのに何も言わない親を見ると、引いてしまいます。

 

特に自分から観たいとも思いませんでしたが、クレヨンしんちゃんなんかは母が見せないようにしていましたね。まぁ、言葉遣いとか表現はそこそこオゲヒンですわね。私が親になったとしても見せないかな…と、そういう母の元で育ったから思うわけですね。

 

 

 

世の中の平均は、低い

私はかつて教員を目指しておりまして、教育実習に行く機会がありました。文字だと大変偉そうですが、せっかくなので教員になる前に世の中の平均(=普通?)を見ておこうと考え、偏差値50の高校を選んで実習に参加しました。

 

勉強に関しては、こんなにできないんだ!みたいな衝撃はありませんでした。まぁ、こんなものかなぁ、と。

唯一あったとすれば、生徒間で成績の差が思った以上にあったことです。私は公立の中高一貫校出身で、そこでは高校入試を経ないために入学から卒業するまでの6年間でとんでもない学力差が生まれていました。片や東大理三に現役合格、片や英語の動詞の過去形すら怪しい…みたいな。

実習先は高校入試で揃えてるんだから、そこまでの差はないだろうと思っておりました。ところが同じクラスでも、教科書の問題を全て簡単に解けてしまう人から、こりゃ中学校の内容も怪しいぞ…という人までおりまして、どうしてこうなる?と疑問に思っていました。ある先生によれば、入試で揃えているのは5教科合計の点数であって、それぞれの教科では生徒間に差があると。なるほどなぁ!と感心致しました。

 

最も衝撃を受けたのは、人間の部分ですね。

実習先の各クラスに40ℓほどのゴミ箱が設置されており、中にゴミ袋を付けて利用することになっていました。ゴミ捨ての際には袋ごと捨てる決まりです。

ある時、私がゴミ捨てを頼んだ生徒が、ゴミ袋の口を縛ってゴミ箱の前にそれを置いたまま帰ってしまいました。その時にクラス担任に言われたのが、

今、ゴミ箱には袋が付いていないよね。その状態のゴミ箱を見た時に、自分からゴミ袋を付けるような生徒は、このクラスにいないよ。

という言葉でした。

これには仰天しましたね。だって、生徒たちはゴミ袋が教卓の中にあることは知っているんですよ?なにも、駅のゴミ箱に付けろなんて話じゃあないんです、自分たちが使うゴミ箱に付けようねって話なんですよ。それを自分からやれる人がいないと。

担任は20代後半、嫌味を言うような人ではありませんでした。ですから、この人が担任をした上で言うのならそうなんだろうなぁと思い、同時に世の中の平均ってこんなに低いところにあるんだ…と衝撃を受けました。

 

勉強が出来る出来ないは、別にいいと思ったんですね。そんなことより、人間の部分でそれじゃあまずいぞ君たち…と思うことはこの他にもありました。

進学校を出た上でああいう学校を見てしまうと、勉強頑張らないといけないよなぁという結論を得ますね。勉強が出来るからちゃんとしている、ということではありませんが、偏差値が高い方がちゃんとしている人間の割合は多くなってくるのは確かです。因果関係はないが相関関係はある、ということです。”ちゃんと”の基準も高くなってきますし。だから私が中学生たちに言うのは、行ける範囲で一番偏差値の高い高校に行った方がいいよ、ということになるんです。その方が、ちゃんとした人に囲まれて生きていくルートに乗りやすいんです。

 

 

卓球での普通とは

最近、中学生に指導する中であれっ?と思ったのは、「普通は裏裏から始めて…」という言葉でした。自分で言いながら、いや待てよと。ここでいう普通って一体ナンダ?という疑問が浮かびまして。

 

卓球に限らず、圧倒的主流を指して「普通」と言うのでしょうね。だから、地域が変われば普通は別のものになるし、今普通のものが時が経つにつれ古いものになって新しい普通に取って代わられることも起こります。

 

卓球で言えば、日本だとフォアから教えるのが主流ですがヨーロッパだとバックから始めるのが一般的とか、攻撃から教えるのが世界的に見て主流だがインドの卓球ではブロックから始めて返せるようになったら強く打つことを覚えていくとか…。

 

普通のサービス、普通に打つ、普通に返す…

卓球を始めて数年の子供たちにはこれでは通じないですよね。つい無意識で使ってしまう普通、気を付けないといけないなぁと思っています。その普通がどういうことか説明できるならまぁいいかなぁとも。

 

 

最近のトップ選手の「チョー」という声、個人的にはなんだよそれ( ゚Д゚)って思っていますね。ヨーならまだ、ヨシ!の頭だけ残ってるという説明で納得できるんですが、チョーって何由来よ、と。中国系でない選手が使っているのを見ると、ちょっと寒いなぁなんて。いやまぁ、それで選手が勝てるならそれでいいんですけれど…

卓球界では平然と使われてますけど、よくよく考えたら奇声ですよね。

 

これも所詮、私の主観に基づいた「普通」に対する「異常」ですね。

 

 

 

(おわり)