死んでからでは遅い

4月30日、高萩中学校女子卓球部の部員が自ら命を絶ちました。

私が想定した最悪の事態が発生してしまいました。

 

個人的に思うところを書いてみようと思います。

 

「殺すぞ」卓球部顧問から暴言と記す 茨城の中3女子自殺 - 産経ニュース

 

 

高萩中ではなかったかもしれない

私がこの報道を初めて目にした瞬間よぎったのは、「まさか高萩中ではあるまいな」ということでした。高萩中の顧問や選手たちの様子は以前から何度か目にしており、選手たちが日常的に叱られながら練習しているであろうことは容易に想像できました。

確かに団体メンバーの全員が一定以上の技術を身に付けていましたが、試合中の表情は硬く、得点時の表情には喜びのようなものは見られませんでした。私が抱いていた印象は、「まるで軍隊のよう」。

 

そういう前情報があったものですから、高萩市と聞いた瞬間に高萩中が浮かんだわけです。ネット上で学校名は特定されており確信は強まりましたが、あまり驚きはありませんでした。選手たちの様子を見ていると、さもありなん、といったところです。

 

高萩中であったことに驚きはなかったものの、卓球を選んだ子供たちの中から自殺が出たことに強いショックを受けました。せっかく卓球を選んでくれたのに…という思いと、決して他人事とは思えないということからでした。

 

私が昨年度まで外部コーチ登録をしていたA中学校の顧問は、この高萩中の顧問を崇拝している節がありました。指導方法や練習内容はおろか、応援の仕方までも真似したがったり、高萩中の練習を見学に出向いたり。合同練習や練習試合の機会を何度も設けていたようです。

似た者同士は引き合うもので、A中顧問は「殺すぞ」というような直接的な暴言はないものの、子供たちの心を平然と傷付ける点は共通していました。

実際、私が関わった3,4年間の内、少なくとも2人に自殺の可能性が生じており、内1人からは本人の口から「死にたいと思った事があった」ということも聞いています。ただし、この2人については部活だけが要因ではなく、家庭環境が大きく影響を与えています。後述します。

 

高萩中ではなくA中で起きていたかもしれないと思うと、本当にゾッとします。私が関わらなかった世界を見ることはできないので確かめようがないですが、私がいたことでそれが防げたのかもしれません。そうだとしたら、その一点のみでも私が生きた意味があると言えるでしょう。

一方で、高萩中には顧問にブレーキを掛けたり、子供たちの傷付いた心に寄り添える人がいなかったのかもしれません。

 

 

原因は部活動だけか

先述した”自殺リスクのあった2人”について少しお話しします。

1人は、お父さんによる強い束縛・過干渉を受け続けていました。卓球についてしばしば非難され、それにブレーキをかけられる人はいませんでした。それを顧問が同じように非難し追い込むものですから、他の選手の傷付き方とは一線を画していました。彼女から死を匂わせる言葉はなかったものの、「お父さんがいるときには家に帰りたくない」という、私にとっては衝撃的な思いを語りました。

 

自殺がよぎったというもう1人は、お父さんから肉体的な暴力を受けていました。最近本人から聞いたところによれば、お母さんも時々お父さんから暴力を振るわれているということです。

まさにDVのある家庭の典型で、お父さんが言ったことに反対できる存在がいません。彼女の場合はお父さんの暴力に合っている最中に、死のうかなと思ったそうです。こちらの家庭については学校から直接連絡が行ったようです。しかしながら家庭内の問題、他のDV例の御多分に漏れず、状況の大きな改善は難しいようです。

彼女の場合は死がよぎったのはその一瞬で、現在では気持ちは落ち着いているようです。世間一般から見れば異常な家庭環境は続いているはずですが、もう心がそれになれてしまっているようです。まぁなんにしても彼女が前向きに生きていられるならそれで良いです。

 

 

私の母は世間一般の基準に照らせば恐らく過干渉寄りで、「私が親になったらこういう風にはしない」という出来事がいくつかありました。しかしながら総括的には母には感謝しており、尊敬できる人物でありました。ですので実家を出るまで、家に帰りたくないと思ったことは一度もなかったのです。家というのは無条件で安心できる場所でした。

 

だからこそ「家に帰りたくない」という発言は私に大きな衝撃を与えました。

このような発言は自殺する予兆の一つとして捉え得ることを知識として持っておりましたので、「これはいよいよ危ないぞ」と緊急性を感じました。彼女の場合はそれ以上に状況が悪化することはなく、無事に中学校を卒業していきました。

 

 

こういったケースを見ているので、私は「部活動だけが原因で命を絶つ」というのは可能性としては低いと思っています。

今回のケースは本人が亡くなっているため本当のところは確かめようがありませんが、いじめは確認できないという学校側の発表が正しいとしたら、他の何かが最後の引き金となったのではないでしょうか。

 

実際、昨年9月のアンケートでは「学校は楽しいが部活動はつまらない。やっているといらいらする」と記述されているわけです。いらつくというのは怒りで、まだエネルギーがあります。ここから死に向かうというのは、部活動だけを理由にするのでは説明が難しいです。

あるいは、アンケートでは直接的に書けず婉曲した表現になっただけで、死のすぐ手前まで追い込まれていたのかもしれませんが…

 

周りの大人が、「先生の言うことなんだから聞きなさい」というような対応をしたのかもしれません。私はこういう考え方は旧態依然として愚かだと感じますが、”田舎”ではまだこうした思想が根強い地区も多いでしょう。

 

誰かが、彼女に寄り添って、顧問に対して声を上げていれば防げたかもしれません。そのように動いていた人がいたなら、会ってお話を聞いてみたい。

責めるためではなく、彼女にも心の支えがあったなら知りたい。また私がこの先関わる子供たちのためにも、どういう要因が重なったら死を選んでしまうのか知っておきたい。彼女はもう戻ってこないけれど、彼女によって救われる子供たちが出てくるかもしれない。

 

 

想像したくないですが、もし先述した2人が命を絶ったとして、部活が原因とは言えないと思います。後者の場合は特に、家庭内の問題に依るところが極めて大きいでしょう。

しかしながら、そういう子供たちを部活で追い込むことで自殺の可能性は大きく引き上げられてしまいます。なんとか心を保っていた子供たちに、トドメを指すことになりかねません。

 

 

大げさだなぁ…と、思いますか。

そうやって悠長に構えてその子が本当に死んでしまったら、あなたは責任が取れますか。その先何もなかったように生きていけますか。

 

私はそうなったら責任が取れません。時間が忘れさせてくれるかもしれませんが、私はきっと卓球をするたびに思い出してしまうと思います。そうなってしまったら、大好きな卓球を心から楽しむことはできなくなってしまう。結局は、自分本位なのかもしれません。

 

顧問には再三、子供たちを傷付けるような言動はやめるよう言ってきました。自殺を考えた彼女には私の電話番号を伝えSNSでも繋がって、夜中であっても何かあったら私へ連絡できるような状態にしました。彼女が練習したいと言えば自宅そばの練習場へ出向き、話がしたいと言って来れば直接会ったり電話をしたりしました。

 

このご時世、子供と、それも女子中学生と直接連絡が取れるようにすること自体が危険視されがちと思います。でも、死なれてからでは遅いんです。取り返しがつかない。悔やんでもどうにもならない。

 

準備というのは万が一を想定して行わなければ意味がありません。災害への備えと同じです。起こりうる最悪の状態に対応できるような準備をしておかなければ、その事態に直面した時に無力です。最悪の事態に対応できないとなれば、それによる被害が最も甚大であることは明らかです。

 

 

命を絶つ可能性が少しでもある子供があなたの目の届くところにいたなら、どうか力になってあげていただきたいのです。

直接的な表現がないうちに。予兆が見えているうちに。

どうしたらよいか判断しかねる時には、私に相談してください。私自身はそんな大した者ではないけれど、その子のために知恵を絞る心の用意はあります。

 

 

死のうとする子供たち全員を救うことはできないと思います。それに、子供は救って大人はいいのか、というご指摘もあるでしょう。

 

しかしせめて、卓球を選んでくれた子供たちが、卓球を一因として死を選ぶことがないよう。

どうか、お願い申し上げます。

 

 

(おわり)