馬龍のインタビューより。
たとえば、こう自分に問いかけることがある。「卓球を愛しているのか、それとも勝利を愛しているのか」「試合でいつも負けていても、まだ卓球を愛していられるのか」。それは自分でも時々わからなくなる。
これまでは試合で勝つことのほうが多かったけど、勝てない時が来ても、変わらず努力していけるか。負けてばかりでも、まだ卓球を愛していられるのか。それは簡単なことではないだろう。
(卓球王国2019年8月号 p68 より)
私自身どうだろうかと考えますと、勝利よりは卓球そのものを愛していると言えると思います。また、負けていても愛していられることはできるでしょう。卓球には競技以外にも愛すべき要素がたくさんありますから。それに、そもそも優勝以外は負けですので、ほぼ100%負けてますしね…^^;
一方で、勉強に関しては馬龍の言うことも分かるような気がしています。
私は受験勉強は得意だったのですけれども、それも思い返せば大抵の人よりは出来るからやろうと思えたに過ぎないのではないかなと。人より出来なかったらモチベーションを保てたとは到底思えないんですね。ただ、卓球と違って自分がやった分だけ成果が出るので、努力量の調整はしやすかったですね。それに英語や数学(高校までの数学は実質算数なんですが…)は好きで割と楽しいものだったので、半分ゲーム感覚でやれたところはあったと思います。
私が人より出来ない卓球を続けられているのは、成長を実感できるから、希望が持てるからなのでしょう。
これが年齢を重ねて動きや判断能力が落ち始め、出来ることを一つづつ失っていく段階に入った時に、果たして卓球を競技として愛していられるのかは分かりません。
一生懸命に練習して得たものを失っていくことへは恐怖を感じます。
最初からできないよりも、できたことができなくなることの方がつらいですから…
私のレベルでこれなのだから、一度引退して最近競技に復帰したJoo se hyukなんかは、一体どれほどの苦痛を感じているんでしょうか。無名の選手にボコボコにされて、いたたまれないですよ…;;
あるいはワルドナー、パーソン、サムソノフのような、齢40を越えても活躍していた選手たちは、自身の衰えとどう向き合ったのでしょうか。できたことを失うつらさよりも、競技として続けたいと思える何かがあったのでしょうか。
私にとってはまだ先の話ですが、今頑張っている分悲しみが大きいような予感がします。
(おわり)